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怪文書やら落書きやら

・本編後のいつかの双子
・なんやかんや両者とも元気にやっている

 


 

 サラサラ、と紙上を何の迷いなく走るペンを、ルージュはぼんやりと眺めていた。眺めながら、相変わらず嫌味のように整った字を書く男だな、ということを思う。
 いかにも退屈ですという体を取り繕うこともせず、逆座りに頬杖を付いた姿勢のまま、ルージュは身体を左右にゆらゆらと揺らしていた。仄暗い室内の、無いに等しい調度品たちに目を向けることにもそろそろ倦んでいた。他に、この殺風景な室内に存在するものといえば、雑然と積み上がった書類の束くらいである。到底、気晴らしの助けになる品ではない。それで、黙々と机に向かうブルーの筆致を追うなどしていたわけである。
 ルージュは続けざまに、眼前の男の顔に目をやった。ルージュがそうであるように、ブルーもまた他者の視線に頓着しない人間である。不躾に注がれる片割れの視線に気付かないはずはないだろうに、手元の紙と向き合うブルーは、ただ無表情にその手を動かし続けるのみだった。
「何を書いているんだ?」
 先に沈黙を破ったのはルージュの方だった。そう問うたルージュに対して、ブルーは顔を上げもせず、
「散々眺めておいてそんなことを訊くな」
 とピシャリと返した。向けられ続けていた視線には、やはり気付いていたようだった。
「見てはいる。だが読んではいない」
「はあ?」
 ルージュの言い様に、ブルーはようやっと顔を上げた。何言ってるんだコイツ、とでも言いたげなブルーの胡乱な目線は、彼の持って生まれた怜悧な相貌も相俟って、常人を怯ませるには充分な迫力を持つ。しかしそれも、ルージュに対しては特別効果を持たないようだった。
 暫く無言で睨みつけられてなおどこ吹く風、という様子を崩さないルージュに対抗するように、ブルーはこれ見よがしなため息をついた。
「そうだな。そういう、よく分からないところがある奴だったな、お前は……」
「どういう評価さ」
「言葉どおりだ」
 説明になってない、というルージュの反論を無視するように、「先程から思っていたが」とブルーは続けた。続けながら、手にしたペンの先を、ピッとルージュに向けた。その表情は至って真面目である。
「行儀が悪い」
「…………今のお前が言えた口か?」
「俺は良いんだ」
「何だそれ……」
 堂々と繰り出される理不尽な言い分に、ルージュはガクリと脱力した。そして、よく分からないところがあるのはどっちだよ、という悪態を飲み込む代わりに、眉根を寄せながらずいと身を乗り出した。元より、己の目的はブルーとのお喋りを楽しむことではない。書き物の内容を知ることなのだから、さっさとその本懐を遂げてしまおう。そういう結論に至ったわけである。
 そんなルージュの行動へのブルーの反応は早かった。用紙を素早く引き寄せると、勢いはそのままにそれを裏返した。引ったくるような勢いで掴まれた紙が、ブルーの手元でくしゃりと音を立てる。ブルーにしては珍しいやや粗雑な所作に、ルージュは少しばかり目を瞠った。
「え、なに。実は機密文書か何かだったりするわけ?」
「……そういうわけでは」
「じゃあどういうわけさ」
「……」
 間髪を入れずに続けられて、ブルーは返答に窮した様子を見せた。しかしそれは、何か誤魔化しの術を探ってのこと、というわけではないようだった。ブルー自身、己が何故咄嗟にそのような行動に出たのかが分からず、戸惑いを覚えている。そんな様子である。
 ブルーは何とも形容し難い顔をしたまま、「そういうわけでは」と、呟くような声音で繰り返した。そして、今度は先程よりも幾分か丁重な、いかにも彼らしい手付きで、薄く折り目の付いてしまった用紙を表に向け直した。書きかけのそれにブルーは最後の一文を書き足し、そんなブルーの淀みない手付きをルージュが改めて凝視する。時間にして、ほんの数秒の出来事だった。
「『術士たる者、術の修練・研鑽に日々励み、己が術力を常に従属せしめよ』」
 ルージュの朗々たる声が室内に響く。ブルーの綴った最後の一文を読み上げた形である。観念と共に白日の下に晒されたその文書は、術士という存在の社会的意義に始まり、術士としての理念や、理想とされる挙措、術との交じらいについて等の箇条書きが並び、そして、ルージュの朗読した一文で結ばれていた。つまるところ、ブルーが書き連ねていたものは、魔術初学者のための教本で一度は必ず目にする、術士の心得や理と呼ばれるような一覧であった。
 この状況で認めていたにしては、あまりに場違いといえるその内容にルージュは黙り込んだ。そしてそのまま暫く、ブルーの顔とその優美な文字列とを交互に見やっていた。
「……え、なに? 今更なに? これ……、なに?」
「三度も言うな」
 自分でそれを書き記しておきながら、ブルー自身も、ルージュとさほど変わらない心境なのかもしれなかった。ばつが悪そうに、注がれる紅の瞳から顔を逸らすと、あとはただ短い返答を寄越すのみだった。ルージュに対して常のブルーであれば度々見せる、諍うような勢いは、そこには存在しなかった。
 ブルーとルージュの二人は、いまや、マジックキングダムの数少ない生き残りである。彼の国の引き起こしたあまりに深刻な事柄たちについて、彼らは多くの場合、残された唯一の民の責務として――彼らが望むと望まざるとに拘らず――少なからぬ対応を求められる。ブルーの逸らされた目線の先には、まさにその手の紙切れたちが、ここ数日減る気配すら見せないままに鎮座しているのであった。終わりの見えない後処理に追われ続ける日々に、ブルーも倦んでいるのかもしれないなと、何とは無しにルージュは思った。
 ルージュが一人そんな考えに耽っていると、不意に、ブルーがルージュの方に向きなおした。先程とは異なり、目には凪いだ青を湛えている。何の予備動作も無いその動きに虚を衝かれることになったルージュは、寸刻、その青とじっと見つめあうことになった。晴れやかな空にも穏やかな海にも思える、そんな青だった。
「くれてやる」
 先の挙動と同じくらい唐突に、ブルーは右手を突き出した。その手には、今回のやり取りの中心に居座り続けている紙片が握られていた。それをほぼ反射的に受け取ってしまってから、さてこれはどうしたものかと、ルージュは思案することになった。不要とただ突き返すことは容易なはずだった。しかし、そうすることにルージュは一抹の躊躇いを覚えたのである。
 魔術の初歩を記したもの。これから魔術を究めんとする者へ宛てられた道理。かつて指輪の君をして最強の術士と言わしめたルージュとブルー、そのどちらにとっても、こんなものはもはや無用の長物でしかない。それどころか、嚮後、誰に必要とされることもない代物だろう。だからといって、ここに記された流麗な文字たちが誰にも見向きされぬまま朽ちていくことは、ルージュには非常に惜しむべきことのように感じられたのだった。
 どこか神妙な面持ちで紙面に相対し続けるルージュを、ブルーは冷やかすでもなく、ただ静かに眺めていた。そして、ルージュが断るような素振りを特に見せないことを収受と捉えたのか、
「教えに倣い修練に励めよ」
 と明らかに冗談めかした調子で述べた。それに対してルージュは、「えらそー。むかつくー」などといったぞんざいな文句を一頻り並べたのちに、受け取った紙片を机上に広げながら、
「では先生、さっそく一つお伺いしたく」
 と続けた。ルージュのその様子に、ブルーは目を剥いて、「うえっ」と大袈裟に叫んだ。
「うえっとか言うなうえっとか。それが真面目に教えを請おうとしている相手に取る態度か」
「うるさい。お前こそ逆の立場だったらどうするんだ」
「うえって言う」
 ルージュの即答に、ブルーは信じられないものを見るような顔をした。それを受けて、ルージュも心外だと言わんばかりに顔を顰めた。しかし数秒もすると、どちらからともなく、声を上げて笑い始めた。そこには険悪さも、疲れに淀んだ空気も見受けられなかった。
「――それで」
 淡い笑顔を浮かべながら、ブルーは改めて尋ねた。
「結局、教えてほしいこととやらは?」
 その問いに、ルージュも笑いながら
「字の書き方」
 と答えた。
「ああ、成程……」
 ルージュの返事に、ブルーは得心が行ったようだった。そして、
「貴様の字は蚯蚓ののたくったようにひどい字だからなあ……」
 としみじみと呟いた。即座に飛んできた、そこまで酷くはないだろという片割れの反論を聞き流しながら、ブルーは適当な用紙をいくつか見繕った。そして、やるんだろう、という顔をルージュに向けた。コツコツ、とブルーの手にしたペンが机を叩く音が響く。
 実はというと、ルージュは半ば、笑い飛ばされて終わりだろうというようなことを考えていたのであった。そんな予想を大きく裏切り、真摯に応える姿勢を見せたブルーに、ルージュも居住まいを正した。今日は思いもよらないことがよく起こる日だな、という感想は内に秘めたまま、ルージュは「よろしくお願いします、先生」と、改めてブルーに一礼した。
 こうして突如として始まった手習いは、「先生は誰に習ったんですかー?」だとか、「お前はまず書き順くらい意識しろ」だとか、そんな取り留めのない雑談を交えながら、夜が更けるまで続いたのだった。